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ジョン・L・サリバン (プロレスラー) : ミニ英和和英辞書
ジョン・L・サリバン (プロレスラー)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョン・L・サリバン (プロレスラー) ( リダイレクト:ジョニー・バリアント ) : ウィキペディア日本語版
ジョニー・バリアント[ちょうおん]

ジョニー・バリアント "Luscious" Johnny Valiant、本名:Thomas Sullivan1946年11月25日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーおよびプレイング・マネージャーペンシルベニア州ピッツバーグ出身。
1970年代に一世を風靡したヒールのタッグチーム・ユニット、バリアント・ブラザーズThe Valiant Brothers)の一員として、WWAWWFNWAAWAなど各団体で活躍した。
== 来歴 ==
ファビュラス・カンガルーズアル・コステロに鍛えられ、ザ・シークが主宰していたデトロイト地区の団体で1967年にデビュー。デビュー前はリング・クルーをしていたという。その後、往年のプロボクサーと同じリングネームジョン・L・サリバン(''John L. Sullivan'')を名乗りニューヨークWWWFに登場。当初はベビーフェイスの新鋭として、キラー・コワルスキーケンタッキー・ブッチャーブル・ラモストール・タナカミツ・アラカワジョージ・スティールバロン・シクルナブルドッグ・ブラワールーク・グラハムなどのヒール勢と対戦し、ブルーノ・サンマルチノのパートナーに起用されることもあった。
日本には1969年9月、日本プロレスに初来日。WWWFを主戦場としつつ、1970年代前半は師匠のアル・コステロも参加していたNWFにも出場しており、1973年7月には、同年よりNWFとの提携を開始した新日本プロレスに来日。ムーンドッグ・メインシーン・リーガンに次ぐ3番手外国人のポジションで、アントニオ猪木ともシングルマッチで3回対戦している〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P83(2002年、日本スポーツ出版社)〕。
帰国後の1973年11月、先輩格の "ハンサム" ジミー・バリアントに誘われ "ラシャス" ジョニー・バリアント(''"Luscious" Johnny Valiant'')と改名し、金髪悪党タッグチームバリアント・ブラザーズ(''The Valiant Brothers'')」を結成。翌1974年1月5日、インディアナポリスWWAでブルーノ・サンマルチノ&ディック・ザ・ブルーザーからWWA世界タッグ王座を奪取。WWWFでは同年5月8日、地元のペンシルベニアにてディーン・ホー&トニー・ガレアを破り、WWWF世界タッグ王座を獲得した。
1976年5月にはバリアント・ブラザーズとして全日本プロレスに来日、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田インターナショナル・タッグ王座およびグレート小鹿&大熊元司アジア・タッグ王座の両タイトルに挑戦している。その後もジミーとのコンビでジョージアフロリダなど南部NWA圏から西海岸サンフランシスコ地区まで全米を転戦し、各地のタッグ王座を総なめにした。
1978年の下期、ジミーが肝炎を患い欠場することになったため、WWA時代の盟友でもあるガイ・ミッチェルを "ジェントルマン" ジェリー・バリアントに変身させてバリアント・ブラザーズを再編。1979年3月6日、トニー・ガレア&ラリー・ズビスコを破ってWWFタッグ王座に返り咲いている〔。後にジミーも加わり、一時はトリオとして東部一帯を暴れ回った。1980年2月にはジェリーとのコンビで再び全日本プロレスに参戦、極道コンビが保持するアジア・タッグ王座に再挑戦した。
チーム解散後はシングルプレイヤーとしてWWAおよびAWAのテリトリーに参戦。兄貴分のジミーほどシングルの実績は残していないが、1981年4月にディック・ザ・ブルーザーからWWA世界ヘビー級王座を奪取している。また、AWAでは同年10月より一時的にベビーフェイスに転向し、ジェリー・ブラックウェルボビー・ダンカンと対戦、当時AWAで大ブレイクしていたハルク・ホーガンマネージャーを務めたこともあった。その後はヒールに戻り、1980年代前半はブルーノ・サンマルチノが興したIWFやカナダオンタリオ地区のビッグ・ベア・プロモーションズなどのインディー団体で活動した。
1984年ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を開始していたWWFと再契約。そのマイクパフォーマンスの才能をマクマホンに買われ、新手のヒールとして売り出し中だったブルータス・ビーフケーキのプレイング・マネージャーを任される。後にグレッグ・バレンタインのマネージメントも担当し、ビーフケーキとのタッグチーム「ドリーム・チーム(''The Dream Team'')」を指揮。1985年8月24日、バリー・ウインダム&マイク・ロトンドUSエクスプレスからWWF世界タッグ王座を奪取させる〔。タイトルは翌1986年4月7日のレッスルマニア2ブリティッシュ・ブルドッグスに奪われるが、その後もドリーム・チームを率いてタッグ戦線を賑わせた。ビーフケーキのフェイスターン後はディノ・ブラボーを加えてチームを再編している。また、WWFではジェシー・ベンチュラボビー・ヒーナンに先駆けるヒールのカラー・コメンテーターとしてもトークの才能を発揮した。
WWF離脱後はAWAでウェイン・ブルームマイク・イーノスのデストラクション・クルー(後にWWFでビバリー・ブラザーズとして活躍)のマネージャーとなり、1989年10月にAWA世界タッグ王者に就かせている。1996年にはジミー・バリアントとのバリアント・ブラザーズでWWF殿堂に迎えられた。近年は天賦のタレント性を活かし、コメディ役者として活躍している。
== 獲得タイトル ==
; ワールド・レスリング・アソシエーション
* WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):2回〔
* WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版):3回(w / ジミー・バリアント)〔
; NWAサンフランシスコ
* NWA世界タッグ王座サンフランシスコ版):1回(w / ジミー・バリアント)
; ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
* NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ジミー・バリアント)
; チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
* NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ジミー・バリアント)
; ワールド・レスリング・フェデレーション
* WWWF世界タッグ王座 / WWFタッグ王座:2回(w / ジミー・バリアント、ジェリー・バリアント)〔
* WWF Hall of Fame1996年度(ジミーとのバリアント・ブラザーズで殿堂入り)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョニー・バリアント」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Johnny Valiant 」があります。




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